彼方の空 住宅評論家 本多信博 ◇222 再考・住まいの思想 自然体で生きる 心が澄む家とは――
住宅新報 2026年4月21日 号 17面
連載: 彼方の空
住まいの思想については、これまで当コラムでは第197回、209回、219回と3回述べてきたが、今回はそれが求められるようになってきた時代背景について述べたい。
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昔、子供たちが外で暗くなるまで遊びに夢中になっていた時代は、その親たちも家族を守るために働くことが当たり前という単純で分かりやすい社会だった。それに比べると、今は結婚も子育てもいちいち決断しなければならず、仕事も常に転職が念頭に浮かぶ厄介な時代である。生き方の多様化といえばその通りだが、迷い出したらきりがなくなる焦燥社会でもある。
現代人の心が疲れている。戦後は自由主義とか個人の権利が尊重されるようになって「表現の自由」とか「言論の自由」とかまでが声高に叫ばれるようになったが、自由の安売りは社会の混乱を招くだけである。何事にも表裏があって、今は多くの若者が「自分は本当は何がしたいのか」などと言い出すようでは自由礼賛も本末転倒と言わざるを得ない。そもそも「本当の自分」などというものがこの世にあるのかどうかは哲学的難問である。
素の自分
ひとは本来、「自分とはなにか」などと理屈を考えずとも自然体で生きられるようにできている。自然と共にあるのが人間(特に日本人)本来の姿である。だから「生活の基盤」といわれる住まいも自然との共生を旨とし、住む人が本当の自分に戻れる場所でなければならない。「本当の自分とはなにか」を考えるのではなく、そこにいるとだれもが素としての自分を感じることができる住まいが理想といえる。
更に言うなら、「ひとが住む」ことの本質は「心が澄む」ことである。心が澄むということは、利害や打算、見栄がまとわりついていた自分が消え、素直な心に戻るということだ。つまり大自然(宇宙)の一部としての自分に戻っていく。すると、自然に生きる力、考える力、行動する勇気が生まれてくる。
心を開く
現代の商業主義的な住まいの多くが自然との共生を無視し、利便性や機能性ばかりを重視し、住む人の心の領域にまでは踏み込んでいないように思える。本来住まいとは、住む人の心のありように変化をもたらすようなものであってしかるべきではないか。
たとえば、「家族の心がオープンになったような気がする」「自分は自分でいいと素直に思えるようになった」「誰とでも心を開いて話すことができ人付き合いが楽になった」等々。
要するに「心が澄む」とは「気取らない」ということである。気取らない家だから、自分も気取らずに済む、誰に対しても自然体でいられる――。つまり、ハードだけでなく、住み手の心を豊かにする住まいが現代社会には求められているのだと思う。
もう一つ、現代の住まいには人を招く文化が欠けていることも気にかかる。かつての応接間ほどではなくても、友人や近所の人が訪ねてくることを前提にしたオープンな設計が望まれる。気取らない家は人を招きやすくし、そうした家が並ぶ街並みはどこか暖かい。
造り手の責務
住み手の心の領域にまで踏み込む住まいは造る側と住む側の価値観の一致がなければならない。こう言うと注文住宅をイメージするかもしれないがそうではない。住まいがひとの心に作用するメカニズムについての知見とノウハウを分譲事業者が備えていればいいのだ。それでも、住み手の感性は様々だから、数タイプのシリーズ分けは必要だろう。某大手ハウスメーカーは6つのインテリアデザインによるモデル棟を用意し、顧客にそれぞれの感性で選んでもらう試みを実践している。誰からも評価されやすい利便性や性能重視だけの家はそれが当たり前の時代になれば、いずれその存在価値を失うように思われる。
























