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酒場遺産 ▶129 神保町 いちこう おでん、江戸から全国に派生

住宅新報 2026年4月14日 号 11面

連載: 酒場遺産

総合
酒場遺産 ▶129 神保町 いちこう おでん、江戸から全国に派生

 神保町で銀行に寄った帰りに裏道をぶらついた。「いちこう」という目立たぬおでん屋の看板を見つけた。普段歩いている道だが気づかなかったのだ。濃茶色の暖簾をくぐり、引き戸を開けると燻し銀の空間が現れた。右手に厨房と白木のカウンターがあり、白髪の常連らしき客がひとり座っている。新参者の僕は遠慮がちに入口に近いカウンター席に腰を下ろす。「熱燗は何がありますか」と聞くと、「菊正宗と真澄、それから夢心は熱燗にできます」という。会津若松の酒という「夢心」辛口を熱燗で頼んだ。一合400円と安く美味しい。料理は、なすしぎ焼と鯵のタタキを頼んだが、これが絶品だった。イキの良い鯵を目の前で卸し、アラは唐揚げにしてくれた。

 そしておでんは、定番の大根、蒟蒻、スジ。薄味で実に美味しい。おでんについて、老店主にあれこれ聞いた。「この店のおでんは、出汁も具も薄味で、関西風ということですか」と尋ねると、老店主はそれまでの穏やかな表情と打って変わり、君は分かっていないな、と言いたげな表情で、おでんについて解説してくれた。

 「おでんには、もともと厳密な定義などないのです。起源は田楽にさかのぼるとも言われますが、今のような煮込みのおでんは江戸で発展したとも言われています。関西のおでんも、もとは江戸から伝わったものだとされています。今、関西風と言われているものは、いわゆる関東炊きで、江戸のおでんが大阪に伝わり、いわば逆輸入のような形で広まったものです。そこから旅人などを通して全国に広がり、静岡おでんや金沢おでん、名古屋おでんといったように、その土地ごとの好みに合わせて出来上がっていったのです。ですから、おでんに正統な定義はありませんが、流れをたどれば田楽から江戸のおでんへとつながります。東京で出汁の色が濃くなったのは、濃口醤油の文化や屋台料理の影響、そして汁を管理しやすかったこともあるのでしょう。うちの店のようなつくり方を続けている店は、だいぶ少なくなりました」。

 そんな話だったと思う。知らないことばかりだった。おでんの話が終わると再び穏やかな表情に戻り、店の歴史について話してくれた。店の暖簾にも書いてあった昭和10年創業。もとは先代の父がこの店をはじめたが、戦災で焼け野原になり、この場所に店を移し、昭和30年頃に再度建て替えたのだという。カウンターは厚さ4㌢ほどの檜の一枚板。食器棚も飴色に変わっている。いずれも檜で、先代の店のカウンターを再用したものだという。勘定は2200円と安い。長い間、値上げをしていないのだそうだ。偶然にも最高の酒場に出会った。(似内志朗)

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