この地上において今 住まいが未来を語り始めた ◇16 住宅評論家 本多信博 明海大・朽方勇祐氏への返信 住まいを幸福の場にする技術
住宅新報 2020年11月10日 号 13面

美しい日本庭園も、見る人によって心象は異なる。結局個々の人間が見ているものは〝自分〟というフィルターを通した光景でしかない。その事実に悩むより、自分の価値観のもと、人間関係をデザインする楽しみこそ発見すべきである
前回、「住まいには人を幸せにする大きな力がある」と書いたが、それは、住まいは生まれたばかりの人間にとっては、最初に体験する最も内部的な〝外部環境〟であるという事実と関係している。
つまり住まいは人間にとって雨風から体を守るハードの存在であると同時に、本質的には極めて感覚的で、〝二番目の皮膚〟ともいうべき存在でもあるからだ。
幸福との関係
今回、拙著『住まい悠久』に感想文を寄せてくれた明海大学不動産学部4年生の朽方勇祐氏は、こう述べている。 「私にとって自然を象徴する田舎の家は利便性に欠け、虫も出る。そのような家に住んでも幸福を感じることなど想像できない」と。
虫が出るのを嫌うのは極めて感覚的だ。住宅が人間の感覚器官の延長のごとき働きをしているからこそ、気持ちが悪いと感じる。しかしその半面、人はこの世に生まれ落ちたときから住まいという肌を通して外界の空気を呼吸し、幼い感性と精神を育んできたのではないだろうか。
朽方氏は住まいについて更にこう述べる。「(筆者は住まいを)何年経っても住める、むしろ価値が上がることを目指すべき姿として描くが、これが実現され当たり前になった世界を想像すると怖さを感じる」と。朽方氏は、やはり住まいと住み手との間には何らかの精神的交流が生じるということを認めている、あるいは感じていると思われる。なぜなら怖さを感じる理由としてこう述べているからだ。
「筆者が言うように住まいが人をつくるなら、ずっと同じ家に住む人は変化も成長もしないことになってしまう」と。もっとも、ここで彼が本当に言いたかったことは、私の主張である〝住まいが人をつくる〟ことなどあり得ないだろうという率直な批判だったのかもしれないが。
朽方氏の住まいの捉え方は、私のように〝重厚を気取る〟のではなく、もっと素直でリズミカルだ。例えば、「これからの時代、住宅に必要なのは〝手軽さ〟だと思う。今こそ、そこにある空き家や空室に簡単に入れるような仕組みづくりが求められている」と語る。私の幸福論が住まいを重たい存在と見ているのに対し、朽方氏はその時々のライフステージや価値観に応じて住み替えるものとして、住まいを生活の気軽な拠点と捉えている。主役はあくまでも住み手にあると。だから、最後にこう締めくくる。
個の意思
「住宅が転換期にあることは確かだが、住宅が(住み手の)自由を摘み取る構図は避けるべき」であると。ここで、私は朽方氏が住まいを住み替える理由の一つに〝価値観〟を挙げていることに注目する。価値観こそが、その人のあらゆる選択基準となるからだが、日本人は自分だけの確たる価値観を持つのが苦手な民族でもある。しかし、朽方氏は「幸福が何なのか、答えは個の意思にある」と明確だ。まさに、個の人生を豊かにするものこそ、個の意思=価値観だと思う。
哲学者ニーチェはこう言っている。「知性と芸術的感性を生活の基本に差し向けようではないか。衣食住こそが私たちを生かし、現実にこの人生を歩ませているのだから」(漂泊者とその影)。生活の基本は衣食住で、そこに知性と芸術的感性を向ければ、人は充実した人生を生きることができるといった意味である。
私が住まいの重さにこだわるのは、住まいが生活の基本であるとすれば、そこにこそ大きな幸福を見いだすことが極めて自然な営みに思えるからである。
幸福とは〝自分らしく生きる〟ことだと思うが、自分を発見し、これが〝自分らしい生き方〟だと確信することは極めて難しい。前回の藤澤美月さんも指摘していたように、「誰しも偏見の中で生きている」からだ。確かに住まいの主役は住み手だが、自分を主役と捉えるだけでは生活の実相は見えてこない。
偏見に満ちた人間は常に、生活する中で人間関係をどうデザインするかに気を配る必要がある。「その技術を、家の中のインテリアの配置から学べ」と言っているのもニーチェ(悦ばしき知識)である。 (住宅新報顧問)






















