幸福論的 『住宅論』 住宅評論家 本多 信博 76/100 高齢者の居場所は 〝老い〟の意味を考えれば自明
住宅新報 2020年1月28日 号 13面
連載: 幸福論的「住宅論」

核家族社会は、高齢者に最もふさわしい居場所を高齢者から奪っている。「子供に世話を掛けたくない」と親は言うが、ひとりで暮らせば最期は人の世話、社会の世話になる。人間、生きても死んでも、誰かの世話になることに変わりはない
家主が高齢者(特にひとり暮らし)の入居を敬遠する最大の理由は〝孤独死〟である。ほかにも、うつ病や認知症などによる引きこもり、それに伴う家賃滞納、ゴミ屋敷化などのリスクがある。
孤独死の場合、発見が遅れると〝事故物件〟化してしまう恐れがある。また、借家権は相続されるため、相続人とでなければ賃貸借契約を解除することも、残置物を処理することもできない。
相続人と連絡が取れても負債(滞納や借金)の存在を恐れて相続放棄されてしまう(その結果、契約解除手続きが進まない)リスクなどもある。借家人保護の思想が強い今の法律のままでは、高齢者の入居を拒む家主は減らないどころか、今後ますます増加する懸念がある。
〝異常〟に気付く感性を
では、どうすればいいのか。最大の障害となっている〝孤独死〟をなくすことである。そもそも、高齢者が誰とも関係をもたずアパートの一室で亡くなるまで一人暮らしをしていること自体が異常である。もちろん、自ら望んで社会との関係を断ち、隠遁生活をするという人がいないとも限らない。しかし、西行や鴨長明の時代ならいざ知らず、現代にあって俗世間と離れ超然として暮らすことなどできるのだろうか。
にもかかわらず、高齢者の単身世帯が増え続けていること自体には驚かず、それを前提にした対策を考えればコトが済むように感じてしまうのは、(前回指摘したように)日本社会と日本人の感性が劣化していると言わざるを得ない。
そもそも、昔はそうであったように、高齢者には身内の者がしっかりと寄り添い、様々なことに本人が嫌がるほど世話を焼くのが尋常な人間社会というものである。
なぜ、日本はこのように高齢者に冷淡で、家族であっても損得が先に立つような世知辛い世の中になってしまったのか。その理由は明白だ。〝老いる〟ということの意味を社会が大切なものとして認めてこなかったからである。
人は誰でも老いるのに、老いることを人間としての価値が減じていくこと、社会的に不要になること、汚らしいものとしてしか扱ってこなかったからである。今の高齢者も若いときにはそうだったのだから、当然の報いともいえるのだが……。
役割終えた核家族
ではなぜ、老いることが大切なものとして社会に受け入れられなくなったのだろうか。その最も深遠なる背景が〝核家族〟なるものの登場と、急速な一般化である。人間が老いていく意味は、人間関係の中でも最も身近で深い情愛で紡がれる家族という歴史の中でこそ光り輝くものだからである。ところが、核家族社会では親と子が一緒に暮らす期間は20~30年ほど。その後は、子はそれぞれの新たな家庭を築き、子育てを終えた夫婦は取り残されたような暮らしの中で老いていく。
これでは、社会の根底をなす家族(家庭)が文字通り空しい核分裂を繰り返しているようなもの。社会の土台という強固な基盤にはとても成り得ない。親から子へ、子から孫へと脈脈と受け継がれるその家の生活流儀なるものがあってこそ、子や孫がまっとうな人間に育つことができる。祖父母は家の流儀が受け継がれていく見届け役である。核家族社会は高度経済成長の基盤となったが、もはや時代的役割を終えている。そればかりか、高齢者に最もふさわしい居場所を社会から奪っているのだ。
家主が高齢者の入居を拒否する法的背景も深刻である。家賃滞納と引きこもりを続ける相手に対する最後の手段は訴訟を起こし、裁判所の明け渡し判決を勝ち取ることだが、現実は強制執行を申し立てても、身寄りも行き場もない高齢者を追い出すわけにはいかないので、執行官は次の転居先が見つかるまで執行を中断する。つまり、法的解決の道はそこで閉ざされる。
このように家主のほうが窮地に追い込まれるケースが今後の高齢社会では続出しかねない。せめて、家主側の負担を少しでも軽くするため、借家権が相続されない「終身借家権」の利用条件を思いきって緩和し普及させる手立て、こそ喫緊の課題となる。
(住宅新報顧問)






















