残したい情景~文化的歴史的所産を巡る~ 第27回 北海道札幌市 一般財団法人 日本不動産研究所 空洞化を経て再び人口回帰 札幌に彩を添える工場群
住宅新報 2019年11月12日 号 14面
北海道がまだ蝦夷地と呼ばれていた幕末期、ロシアの南進政策に警戒を強めていた幕府は、現在の札幌市東区周辺を食料供給地として開拓することを決めました。二宮尊徳の門下生としても知られ、後に「開拓の祖」と称される大友亀太郎が1866(慶応2)年、幕府から命を受け、現在の苗穂北部に幕府直営の模範農場「御手作場(おてさくば)」を設置。ここを開拓の拠点としました。
御手作場の周辺は、アイヌの人たちが豊平川につけていた名前にちなんで「察歩呂(さっぽろ)村」と名付けられ、道路や用水路が次々と整備されました。苗穂周辺は札幌の歴史の起点となった場所でした。
明治維新後に開拓使が発足すると、行政の中心地が「札幌」と定められ、現在の道庁周辺に「札幌本府」が設置され、こちらが開拓の拠点となりました。察歩呂村は「札幌元村」と名前が変わり、明治3年に札幌元村南部へ山形や新潟から移住者188人が入植すると、「苗穂村」と改称されました。
殖産興業の最先端
苗穂という地名は、アイヌ語の「ナイポ」(小さい川)に由来しているそうです。周辺はいくつもの小川や湧水地があって水に恵まれた土地で、水資源を利用し数多くの官営工場が建てられました。明治6年の官営札幌製粉所に始まり、紡繊・製油・精糖・製麻・製糸の工場や、麦酒・葡萄酒・味噌醤油の醸造所ができ、当時、苗穂は殖産興業を目指す日本の最先端エリアとなりました。明治42年、JR北海道苗穂工場の前身となる「鉄道院北海道鉄道管理局札幌工場」ができると、鉄道車両の製造、検査や修繕を一手に担うようになりました。明治43年苗穂駅が開業し、市電も乗り入れ、創成川東~苗穂地区の工業化は一気に加速していきました。
そんな地域もやがて衰退の時期を迎えます。昭和41年に冬季札幌オリンピックの開催が決まると、札幌都心部は新しい街づくりが進められました。昭和46年に地下鉄南北線が開業し、これに伴い市電苗穂線は廃止。鉄道や道路の整備が急速に進められ、工場や物流拠点が次々と郊外・市外へ移転していきました。地域内には広大な工場跡地が増え、働いていた人たちも郊外へ移転、人口も減少し、苗穂周辺の急速な空洞化が始まりました。
今に歴史を伝える
今、そんな創成川東~苗穂地区が大きく変わろうとしています。これまで広がり続けていた郊外の住宅地から、都心周辺への人口回帰が見られるようになったことに加え、都心へのアクセスの利便性が評価され、住まいの拠点として当該地区が見直され、大規模なマンション開発が多く見られるようになりました。現在も複数の再開発が進行中でマンション等の整備が進められています。
このような中でも、地域内には当時の歴史を伝える建物が多く残っています。商業施設に変わったもの(サッポロファクトリー)、博物館としてその歴史を伝えているもの(サッポロビール博物館、北海道鉄道技術館)、まだまだ現役で工場として使用されているもの(福山醸造)など利用状況は様々ですが、いずれも所有企業が後世に残すため大切に使用しています。
これらの歴史的施設が新しい街に彩りを添え、魅力ある街に熟成していくことを願っています。(北海道支社/不動産鑑定士・遠藤公正)

























