残したい情景~文化的歴史的所産を巡る~ 第13回 長野県須坂市 一般財団法人 日本不動産研究所 〝蔵の町〟整備に市が補助 製糸で栄えた町並みを後世に
住宅新報 2019年7月30日 号 16面
長野駅から長野電鉄で約30分、長野盆地東部の千曲川を挟んだ長野市の対岸にリンゴやブドウ等の果樹と機械・電子機器等の工業を中心とした農工業都市、須坂市がある。
現在は、長野市のベッドタウンとしても発展しているが、明治から昭和初期までは群馬県富岡市や長野県岡谷市と共に輸出用生糸の一大産地として栄えた。全盛の大正時代には釜数約6000、工女たち従業者数は7000人を超えていたとされ、中心市街地の中町や上町の菓子屋、小間物、呉服屋などは工女相手ににぎわった。東京や横浜からは生糸の買い付け商人が多く訪れ、料理屋や芸姑屋は大いに繁盛したようだ。しかし、昭和4年からの世界恐慌の影響で製糸業は一気に衰退し、昭和40年頃までにほとんどが廃業した。第二次大戦後は大規模な製糸工場跡地に電気・電子機器関連の疎開工場が定着したことから、工業都市へと変貌を遂げ、桑畑はリンゴを中心とした果樹園に変わっていった。
須坂の製糸業は、明治初期に水車の動力で糸車を回す器械製糸の技術が導入されたことで大きく発展した。既に江戸時代から精米や油を絞るために扇状地の急な勾配を利用して千曲川の支流から引いた裏川用水(道路に面した屋敷の裏を通るので裏川用水と呼ばれた)が整備されており、その水力が利用できたことが大きい。
裏川用水が発達 須坂の街を歩いてみると、明治から大正時期に建てられたと思われる大壁造りの豪壮な製糸家の構えや町屋の蔵の町並みなど、製糸産業隆盛期の建物が中心市街地に多く残っている。中には敷地内に当時の工女が暮らした寄宿舎や飯場、味噌蔵などを残している家もある。
時代の流れの中で製糸業は途絶え、歴史的な町並みは徐々に失われていったが、蔵や商家造りの建物がまとまりをもって残されているのは全国的にも希なケースのようである。これは、製糸家の屋敷利用が裏川用水を利用した水車小屋を中心に工場と母屋や製糸関連の施設が敷地内に分散することなく配置されていたことで、建物が取り壊されずに長く利用されてきたのではないかといわれている。
往時の活気に満ちた繁栄ぶりがしのばれる歴史的な町並みも、普段の生活の中では見慣れた風景として見過ごされがちであるが、貴重な歴史遺産として広く認識され、保存と再評価、更には観光資源として生かしていくことが大事である。
市では、歴史的建造物が多く残る旧街道筋を中心に住宅や店舗、門・塀などの修理や修景に対して補助を行い、町並みの環境整備事業等も進めたことから、今では「蔵の町信州須坂」として知られるようになってきた。
蔵がゲストハウスとして再生され、空き家が店舗として利用されるケースも増えてはいるが、一方で商店経営者の高齢化や後継者不足、閉鎖店舗の増加等により、中心市街地が活力をなくし、古い建物が徐々に失われていく状況下にある。しかし、製糸産業繁栄の歴史を伝えるまゆ蔵に代表される土蔵造りの堅牢さや美しさ、製糸家の求めに応じ職人たちが腕を競った確かな技と職人魂は後世に伝えたい情景である。(長野支所/不動産鑑定士・塚田賢治)


























