残したい情景~文化的歴史的所産を巡る~ 第3回 地元に伝わる薩摩への思い 記憶された偉業〝宝暦治水〟
住宅新報 2019年5月21日 号 14面
古くより、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川の下流域に広がる輪中地帯は水害が多発し、三川の分流工事を行うことが地元民の悲願だった。宝暦治水とは、江戸時代の宝暦4年(1754年)2月から宝暦5年(1755年)5月にかけて幕府の命により薩摩藩が資金と人手を負担して行った木曽三川の治水工事をいう。
総工費は40万両
総勢約950人を派遣して行われた工事は区間総延長約112キロと広範囲に及び、総工費は約40万両(現在の価値で約300億円)を要した。
工事は数次の出水で作業が思うように捗らず、幕吏の強い督責から自刃する者も続出し、また粗末な食事と重労働から体力が弱り疫病に罹る者も多く、総勢の約1割に当たる88名の犠牲者が発生した。1年3カ月の工期を経て治水工事は完成したが、幕府検分一同その出来映えに驚嘆したと言われている。
木曽三川は宝暦治水の後、明治初期の近代土木技術を用いた木曽三川大改修を経て現在に至るが、その根底部分は宝暦治水により形作られたものだ。
千本松原は、岐阜県海津市海津町油島、長良川及び揖斐川の河口域に所在する治水神社を起点に約千本の松が生い茂る景勝地だ。
治水神社は、治水に尽力した薩摩藩士の功績を讃え、総奉行であった平田靱負(ひらたゆきえ)の遺徳を偲び、犠牲となった薩摩藩士を慰霊する社だ。工事後堤防沿いに植えられた九州産の日向松の松原が約1キロ続き、中には樹齢約二百年の大きな松があり、望み松、偲び松など様々な名前が付けられている。千本松原は地元の人々にとって、遠い昔の治水工事への感謝と故郷の安穏を実感する憩いの場として大切にされている。
治水工事は薩摩藩家老の平田靱負が総責任者(総奉行)として指揮を取った。当初、幕府の命令に薩摩藩は反発を強め「命令を突き返し、一戦を交えてでも断るべき」という意見も出る中で、平田靱負は「縁もゆかりもなく、遠い美濃の人々を水害の苦しみから救済する義務はないかもしれないが、美濃も薩摩も同じ日本である。幕府の無理難題と思えば腹が立つが、同胞の難儀を救うのは人間の本分であり、耐え難きを耐えて、この難工事を成し遂げるなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩武士の名誉を高めて、その名を末永く後世に残すことができる」と説き伏せ、工事を引き受けたといわれている。平田靱負は、工事が完成し国許に報告を行った翌日、多額の費用と多数の犠牲者を出した責任を一身に負い切腹した。
薩摩義士を偲ぶ
岐阜県の木曽三川を擁する西濃地域に暮らす人々は、今でも、宝暦治水の恩を忘れていない。畏敬をもって当時の薩摩藩士を薩摩義士と呼び偲んでいる。また、小学校の道徳の授業では宝暦治水や平田靱負を学ぶ機会があり、宝暦治水の史実を後世に伝え続けている。更に、宝暦治水を縁に71年、岐阜県は鹿児島県と姉妹県盟約を締結し、現在でも小中高学校教員等の交流派遣を行っている。07年の財政逼迫の折、岐阜県は他県への教職員の派遣を中止したが、鹿児島県だけは途切れることなく交流は継続された。
地元の人々が今でも千本松原に対して深い思いを寄せるのは、当時の薩摩藩士達の苦労を偲び感謝の気持を思い起こす記念碑となっているからだ。
工事後約265年を経過してなお記憶される偉業を遂げた薩摩義士は以て瞑すべしと言えよう。ともすれば目先の利益や事情に流されて大計を見失いがちな現在、宝暦治水・千本松原は不動産に携わる者として心に留め、戒めとしたい情景である。(岐阜支所/不動産鑑定士・西村隆)

























