一般財団法人日本不動産研究所(27) 地域資源を生かす ~まちづくりからインバウンドまで 郡山市 安積疎水 明治期の国家プロジェクト 未来を拓いた一本の水路
住宅新報 2018年11月13日 号 14面
郡山市は、県庁所在都市ではないものの、高速道路や鉄道路線が交差し利便性が高いことから、東北地方を代表する経済都市の1つとなっている。東北新幹線により首都圏へのアクセスも良好で、東京駅まで80分程度、首都圏北部であれば通勤さえ可能な都市である。郡山市の人口は約33万人で、県内最多であるいわき市の約34万人に続き、県庁所在地である福島市の約29万人をしのぐ。地価においても、県内の地価公示・地価調査の最高価格地は住宅地・商業地ともに郡山市に存する。
市内には百貨店のほか大規模な商業施設が複数存在し、自家用車の利用が前提となるものの、生活上の利便性も高い。郡山市は、市街地を少し離れると田園風景が広がり、市内に有名な温泉地もあり、県内各所の観光施設等への利便性も高く、都会と自然が融和した「住みやすいまち」であると感じる。
地方の主要都市は一般的に、陸・海運の要衝に建設された城とその城下町を基礎に形成されたものが多いと思われる。福島県であれば会津若松市がそのような都市の代表である。一方、郡山市は城下町を基礎に形成された都市ではない。郡山市の発展の基盤は、明治初期における安積開拓と安積疎水の開さくである。安積開拓と安積疎水は16(平成28)年4月に「未来を拓いた『一本の水路―大久保利通〝最期の夢〟と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代」として日本遺産に認定された。
官民協働の開拓
「郡山市史」によると、明治初年の郡山の人口は5千人にも満たなかったという。江戸時代後期から宿場町として栄えた町であったが、決して大きな町ではなかったと思われる。
明治初期の日本政府は、殖産興業の進展を目指す一方で、士族の授産に頭を悩ませていた。また福島県でも、戊辰戦争後に困窮していた士族の入植、開墾を企画していた。
明治6年には福島県の説得に応じ、地元富商ら(民間)により「開成社」が結成され、当初の安積開拓事業は官民協働により本格化した。明治9年には内務卿、大久保利通の決断により、安積開拓事業は国も参画する事業になった。大久保が暗殺された明治11年には国の予算も計上され、九州の久留米藩をはじめ、土佐藩、松山藩、鳥取藩、岡山藩、米沢藩と県内の二本松藩、棚倉藩、会津藩より約500世帯、2000人余りが入植したという。現在の郡山市でも、地名や寺社に諸藩入植の名残がみられる。
明治12年、国の許可を受け、いよいよ安積疎水の開さく工事の着工に至る。猪苗代湖から、奥羽山脈に585メートルのトンネルを掘り、安積の原野に至るこの工事は、わずか3年1カ月の工期で、延べ85万人の労力と当時の国家予算の3分の1に相当する予算を投じて行われた。驚嘆に値するスケールである。
水力発電も
明治15年の安積疎水の通水により、コメの作付面積が飛躍的に増大したばかりでなく、水量を活かした鯉の養殖も盛んになった。現在も郡山市は、鯉の生産量で全国市町村1位となっている。明治後期には安積疎水を活かした水力発電による電力が郡山に送電され、郡山のさらなる発展に寄与した。
「西郷どん」が人気を博している昨今であるが、大久保の決断による巨大な国家プロジェクトに思いを馳せながら、郡山の鯉に舌鼓を打つのも一興と思う。
(福島支所、不動産鑑定士・松本竜二)

























