明治維新後、伝統的な建築の世界も一気に西欧化が進みました。大きな変化は混乱を伴うことなく、比較的スムーズに受け入れられましたが、それは長く続いた江戸という時代によって、職人の教育や練度が非常に高度なレベルにあったからです。
少ない情報で完成
幕末から明治期にかけて建築された西欧建築には、招聘した外国人のお抱え建築家が細かく図面や現場で指導をしたものもありますが、それは富国強兵のための産業建築や大型建築であり、多くの場合は簡単な図面と仕様書、口頭での指示でした。日本の職人や棟梁はその程度の情報を基に、指導した外国人建築家が驚くほどの理解力と創意工夫で、イメージ通りの建築を完成させたのです。
大森貝塚を発見したエドワード・モースは日本の職人に関して、「その仕事ばかりか、新しいものを創造する能力においても、米国の大工とは比較にならないほど優れている」と記述しています。
仕事を受けた大工は、まずヤード・フィート法で書かれた図面を読み込んで尺貫法に変換します。これを基に非常に精細な模型を製作し、三次元的な納まりや意匠を理解したうえで実施図面を作成し、工事に着手したようです。
また、当時の西欧建築は漆喰で飾りの柱や梁、軒先の蛇腹を造る必要がありました。伊豆の長八(江戸の左官職人で、名人として知られる)の技術を見ればその高いレベルが確認できますが、左官職人は複雑な西欧風の造形にもたじろぐことはありませんでした。それだけでなく、我が国独特の漆喰技法「糊料(ゲル化安定剤)の使用」を駆使し、西洋漆喰にはない滑らかで精細な仕上がりを得ていました。こうした左官の優れた技術は、煉瓦積みやタイル張りにも遺憾なく発揮されました。
「錦絵」通じ地方へ伝播
西欧建築は明治10年にもなると、学校や役所として日本各地で造られるようになりますが、地方の職人が横浜や函館で実際の西欧建築を目にして学習したわけではありません。イメージ伝播に役立ったものとして『錦絵』の存在があります。
錦絵は庶民の生活や風俗を描くものとして、幕末から明治にかけて大変な人気がありました。現在のグラフ雑誌とテレビ、インターネットを合わせたような存在だったのです。維新以降は開港場に造られた西欧建築が人気のテーマで、1つの西欧建築に対し百種類を超える錦絵が描かれたケースもあるほどです。地方の職人たちはそのような錦絵を見ながら、造り方や意匠を想像したようです。
また、『西行(さいぎょう)』という行為も西欧建築技術の伝播に大いに役立ちました。西行とは、徒弟期間を終えた職人が自分の技術を磨くため、日本各地を修行して渡り歩くことです。『友達』『渡り』とも呼ばれ、平安時代から行われていました。この西行によって、西欧建築の技術や意匠は短時間で地方に広まったのです。
更に、若い職人による西行は、西欧建築の新しい技術を柔軟に受け入れる若い大工や棟梁を中心に広まったことから、親方が時代に取り残され、古い徒弟制度の崩壊も起きたのです。 (建築家・中村 義平二)























