仏語に「生老病死」(しょうろうびょうし)という言葉がある。人間は誰でも生まれたときから老いが始まり、老いるから病を得、最期は死に至る。人生は生きること(生まれたこと)も含めて4つの苦悩を抱えているという意味である。
つまり、人間は誰でも年を取る。それなのに高齢者は医療費がかかる、だから高齢者が増えると若い世代のための予算が確保しにくくなるなど、高齢者を忌避(きひ)するために「高齢者」という言葉を使っている。75歳以上を後期高齢者と呼んで別枠にする医療制度も、中味はともかく(複雑過ぎてよく分からない)、発想が差別的だ。
この世には男と女しかいない。当たり前である。だから性の違いをもって職場の待遇などに差を付けるのはいけないことになっている。それならば、年を取るのも当たり前のことだから、そのことをもって差別するのはいけないことではないのか。
超高齢社会は否が応でも今後100年は続く。一世紀にもわたって高齢者、高齢者と言い続けるのだろうか。超高齢(長寿?)社会に対応した社会システムを構築するためには、まず旧来の〝限界(破滅)志向〟から脱却しなければならない。それは言葉の選択から始まる。
〝老人〟は、いい言葉
後期高齢者医療制度の前身は「老人保健制度」だった。「老人」という言葉には老いることへの尊敬の念が込められている。「敬老の日」がそうだし、忠臣蔵の大石内蔵助は「筆頭家老」だった。老いることは、若くて空疎で無恥であることから脱却することである。
それなのにアンチエイジングという言葉がある。「若さを保持する」という意味では一見積極志向のようにも感じられるが、老いることを忌避している点で従来の限界志向から脱却できていない。老いることを積極的に受け入れてこそ、新しい社会システムへの道が見えてくる。
随筆家の山本夏彦氏(故人)は「老人のいない家庭は、家庭ではない」と言った。親から子へ、あるいは孫へと代々継承するものがなければ、そこは家でも家庭でもなく、人の世でさえないと言う。
昔のことを語って聞かせる老人がいなければ、子供は昔を知らないまま育つ。昔を知らなければ、自分が生きている時代の意味も分からない。生きている意味が分からない人間ばかりが増えれば、確かに人の世とは言えないだろう。
核家族社会が続けば、子供は結婚と同時に親元を離れ、別に世帯を構える。そして、子供が生まれても、その子供に親として語っておくべき〝我が家の歴史〟も〝教え〟もない。生まれた子供が成長し、離れていくまでのわずかな期間を、親というより、あたかも友人のように生きていくだけである。
はかない核家族
これでは「生まれては消える泡沫(うたかた)」よりもはかない。このままでは老人の平均余命は伸びても、家族とのコミュニケーションが増えることはないだろう。逆に命が伸びた分、希薄化する恐れがある。
戦後、世界が驚くほどの急ピッチで経済復興を果たし、衣食住を豊かにし、医療制度を充実させ、その結果として手に入れた(入ってしまった?)長寿社会だが、それを日本人は愚かにも徒花化するのだろうか。
老人が誇りをもって生きることができる場所の一つは、やはり家庭である。
安倍政権は昨年、新3本の矢の(1)GDP600兆円(2)子育て支援(3)介護離職ゼロを打ち出し、子育て支援の一環として「3世代同居の推進」を掲げた。具体的にはそのために行うリフォーム工事への補助や、3世代同居に対応した良質な木造住宅の取得を支援する。
戦中はともかく戦後は、国が国民のライフスタイルに関わることを政策目標にすることはなかったという。それだけ今の日本は、大きな社会システムの変革が求められているということなのだろう。(本多信博)


















