知って得する建物の豆知識 347 煉瓦の歴史 品質との闘いに負けた
住宅新報 2022年11月8日 号 5面
連載: 知って得する建物の豆知識
建築と建築材料には密接な関係があり、現在のように流通が発達していない時代にあっては、森林に恵まれた地域では木造技術が発達し、石材しかないような地域では石造建築が発達しました。煉瓦発祥の地とされるエジプトではナイル川の氾濫が、葦の原に沼地を形成していましたが、この泥土を強烈な太陽光線にさらして固めると石にも等しい硬い塊ができることは自然に発見されたことと想像できます。
この泥を一定の運びやすいサイズの木枠に入れて固めると、積み重ねやすく接着面の広い「日干し煉瓦」(ピゼ)が出来上がりました。日干し煉瓦は紀元前3世紀以上前からエジプトやメソポタミアで実用化されており、煉瓦の原材料になる泥土には葦の枯れ草の繊維などが多く含まれ、これが強度を上げる役にも立っていました。紀元前2世紀になると日干し煉瓦の他に焼成煉瓦や石膏ベースのセメント煉瓦が作られるようになり、飛躍的に技術が進み、紀元前数百年頃のアッシリアでは着色焼成煉瓦を用いた大建築も出現しました。
中国には煉瓦に似た「磚(セン)」という焼き物があり、これを煉瓦の日本伝来とする説もあります。しかし、色合いや質感は煉瓦に似ていますがどちらかというとタイルに近く、寺院の床や屋根瓦として使われ、圧縮力を受ける耐力壁材ではありませんでした。
現在の煉瓦の祖先が日本に入ってきたのはずっと時代が下って徳川末期です。安政2(1855)年、幕府は長崎飽之浦の製鉄所を建設するに当たり、オラング人ハルデス監督の下に長崎の瓦屋に命じて、オランダ風の煉瓦を製造させましたが品質が不良で失敗しました。一方、英国人技師オードロスの監督で大阪の瓦屋が製造したものは品質が良好であり、これが洋風実用煉瓦の第1号です。翌年の大阪造幣局の分工場である大阪鋳造所の建築では、堺の瓦屋原口忠太郎が窯を築いて焼いた煉瓦が非常に良質で、原口製造工場は煉瓦工場として名を上げました。
ちなみに、日本に大きな影響を与えたのはオランダと英国です。どちらも植民地を除けば本国が小さいという点、建築用の石材を大量に安定的に得ること事が難しく、煉瓦と煉瓦建築の技術が発展していたのです。また、英国とオランダは煉瓦を石材やモルタルで覆うことはせず、煉瓦の赤を建物の外観まで見せたため、両国の影響を受けた日本人は、赤煉瓦そのままでないと煉瓦建築ではないと思っています。しかし、石材が豊富な地中海岸の伊や仏では通常煉瓦造建築の外側は石材で仕上げます。
明治8年ごろになると原口製造工場のほかに稲葉組などの煉瓦工場ができましたが、年間の生産高はわずかに200~300万個にすぎませんでした。というのも、例えば琵琶湖疏水工事に使われた年間約600万個の煉瓦は、雇われ外国人技師による官営工場で製造され、需要は民間工場にまで及びませんでした。
首都圏では明治5(1872)年、大蔵省建築局が浅草橋の天保銭鋳造所の跡地に窯を築いて各庁舎建築用の煉瓦を製造させましたが、米国人技師の技量が低く成功しませんでした。そこで建築局は日本に旧来から用いられてきた瓦窯を改良した別窯を設けて製造を続けましたが、これも品質が低く、2年後には工場閉鎖になってしまいました。
その後も、官窯民窯を含め煉瓦工場の建設は続きますが、開設と閉鎖を繰り返すばかりで、大手と呼ばれるような工場は出現しませんでした。明治中期には煉瓦職人も増え、煉瓦造は一般的な技術の一つにはなりましたが、耐震性の低さから関東大震災以降は鉄筋コンクリート造に駆逐されてしまいました。
(建築家・中村義平二)























