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彼方の空 住宅評論家 本多信博 ◇38 続・空き家問題の背景 個人主義と核家族社会 輸入思想に死角はないか

 核家族社会が続く限り空き家の発生を止めることはできない。核家族社会では子はいずれ独立し、親とは別の世帯(家)を持つことになるから、親が死亡すればその家は空き家となる。子が独立し、夫婦または一人暮らしとなった高齢者世帯は空き家予備軍と呼ばれている。20年時点でその数は合わせて約1600万世帯。40年には単身高齢者世帯だけで約900万世帯にも達する。

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 核家族社会の時代的役割は終わったと思うが大家族制への復帰に賛成する人は少ない。その理由の多くは「今更、若い人たちが嫁と姑など煩わしい人間関係を受け入れるわけがない」というものだ。

 日本における大家族制の一般的な形態は、兄弟姉妹のうち長男もしくは次男(または両方)が結婚後も配偶者と共に実家にとどまり、同じ屋根の下で暮らすというものである。従って〝嫁と姑〟問題が発生しやすい。これに対して長女や次女が結婚後も実家にとどまり、夫が義理の父母と暮らすのがいわゆる〝マスオさん〟スタイルで、義理の親子関係は前者よりもうまく行きやすいと言われている。

輸入された思想

 日本で核家族が急速に普及したのは戦後のことだが、思想的背景を言えば明治時代に西欧の文化を吸収する際に流入した「個人主義」の影響が大きい。

 個人主義とは「個人は何ものの制約も受けず自由に個人的幸福を追求する権利がある」という思想である。だから封建時代のように家の制約も受けず、現代の民主主義国家では個人は最大限の権利を保障されて当然となる。

 個人主義をもう少し哲学的に言えば、「個が先か社会的関係性が先か」という問題で、個人が先と考えるのが個人主義である。言い方を変えると、社会や国家は個人のためにあるという考え方である。また、こうした思想の根底には、理論的に実在するのは個々の個人であり、社会や国家は実在する個人の集合を意味する名称に過ぎないという「社会唯名論」がある。だから個人主義は「個人実在論」ともいわれている。

 しかし、この西欧型個人主義はもともと日本人の感性とは相いれないものである。なぜなら300年も続いた封建時代を生きてきた日本人の精神の根底には、個よりも関係性が先という思想が当たり前だったからである。嫡子による家督性が厳格にルール化されていた武士の世界に限らない。士農工商の最下位にあった商家でさえ子は親の家業を継ぐのが当然であり、親が隠居して自分が当主となれば親の名前を継承し「二代目〇〇」となった。つまり、基本的に個はなく、最終的に人生で成功するためには自分を殺してこそ自分を生かすことができるという逆説的思想が自然に浸透していたのである。

 個よりも関係性が優先されるという思想は現代でも脈々と生きている。中央官庁や大企業で起こった公文書や安全性を担保するデータが組織のためという理由で改ざんされていたことはその一つの証拠である。

日本は関係性優先

 そもそも人間は〝関係性〟の中でしか生きられない。だから人の間と書く。親子、兄弟姉妹、親類、会社の上司・同僚・部下、地域の隣人、友人、恋人――そうした様々な人間関係の間に存する者が人間である。だから人間はそのわずらわしい関係性の中にこそ喜びも悲しみも悩みも最終的幸せもある。

 オーストリア出身の心理学者アドラーも「人間にとってすべての悩みは対人関係の悩みである」と断定する。人間は孤独を感じるためにさえ、他者を必要とすると。

 つまり、人間は社会的関係性の中でのみ「個人」になれるのだとすれば、狭く、浅く、短い家族関係しか築けない核家族社会という制度は人間としての幸せを小さくしているだけのものではないのか。だからこそ、お盆や正月休みには大混雑を覚悟してでも親に孫の顔を見せるために田舎に帰省する。より心広く、満ち満ちた、悠揚たる幸せを求めて――。