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幸福論的 『住宅論』 住宅評論家 本多 信博 86/100 コロナ危機に学ぶ 〝想定外〟にどう備えるか

 新型コロナウイルスの脅威が住宅・不動産市場にもひたひたと押し寄せている。当初は中国で製造している住宅設備などの納入遅れで竣工が約束した期日に間に合わないという日程上の問題だった。しかし、日常生活における活動自粛で経済全般が深刻なダメージを受け始めた現段階では、国民の住宅購入マインド自体が冷え込んでしまわないかという懸念が強まっている。

意識の変質

 更に、もしこのまま感染者が増え続け、東京で感染爆発が起こり〝首都封鎖〟に追い込まれたらどうなるだろうか。国民の危機管理意識が大きく変質する可能性がある。つまり、その後首都封鎖が解除されたとしても、人口が密集している東京という大都市に対する警戒感が薄らぐことはないだろうし、その茫漠とした不安は澱(おり)のように心の底に堆積していく。住宅・不動産業界はそのこと自体を深刻な危機と受け止めなければならない。

 今後30年以内に7割の確率で起こるといわれている首都直下型地震の被害予想(シュミレーション)が公表されたときには、さほどの反応はなかったが、コロナ危機で〝首都封鎖〟という想定外の事態を経験することで、日本人の危機感が一気に覚醒する可能性がある。今や、〝温暖化〟で地球環境が激変しているのだとすれば、人類にとって未知のウイルスが今後も次々に出現するかもしれない。

  ウイルスはこの地球上に存在する最も原始的で、1ミリの1万分の1以下という微細な生物である。それが一歩対応を誤れば人類を滅亡させるほどの威力を持っていること自体が不思議でならない。しかし、その不思議さはあくまでも人類側が抱く感想であって、ウイルス側からみれば至極当然なことなのかもしれない。

 そもそも、危機管理とは本来そうした想定外の事態に備えることをいうようだが、想定外のことに備えるというのは一見論理矛盾に思える。しかし、想定外とは「見方を変えれば起こり得ること」と解釈するなら、危機管理とは人間として謙虚になることだと理解できる。案外、コロナもそのことを人間に教えに来たのかもしれない。いやいや、そう考えること自体が人間の驕り(おごり)というものか。

籠城という機能

 今回のコロナ危機で学ぶべきことがもう一つある。それは、台風や地震、津波などの自然災害のときは集団の避難場所が必要だが、ウイルスと戦うためには自宅を避難場所にしなければならない。つまり、自宅に〝籠城〟するとなれば、そのための生活必需品、食料、飲料水などを備蓄しておくスペースが必要になる。最近、収納のためのトランクルームを外部に設置するサービスが普及しつつあるようだが、少なくとも非常時のための備蓄スペースは家の中に設けてこそ〝安心〟というものである。住宅は雨風をしのぐためのものというのが古来からの常識だったが、今回の危機は、目に見えないウイルスから身を守るためというSF映画的なシーンさえ連想させる。

住まいを楽しむ

 もし、家という空間が、特に〝籠城〟という非常時に備えるためでなく、普段でも数日を家の中で過ごすことになったとき、そこが快適に過ごせる場であったなら、なんと優雅だろうか。そのためには趣味を楽しんだり、ときには友人らを招くスペースがほしいし、庭を眺める濡れ縁も魅力だ。そういう発想から、住まい選びにおいては、広い敷地を確保するために地価の高い都心や大都市を避けるという選択があってもいい。

 交通の利便性など立地優先ではなく、住まいにおける生活シーンそのものを楽しむという考えだ。現役世代からは非現実的と言われそうだが、住まいが、日々同じ生活を繰り返すための拠点でしかないとすればそれも寂しすぎる。

 家族で四季折々の催事を楽しむ場として、あるいは友人・知人らとの交流の場として、そして万一のときには十分な備えをもって籠城する場に変わるものと心得ておく、そんなゆとりを持つことも、また必要なことではないだろうか。   (住宅新報顧問)