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大言小語 大震災の記憶

 その日、多くの人が一瞬にして跳ね飛ばされ、自らを守るはずの家の下敷きになった。大破したマンションやアパートもあったし、中間階が押し潰された大型ビルもあった。木造住宅が立っている傍らで鉄筋コンクリートの小型ビルが道路に倒れ込んだり、不倒神話のあった高速道路は無惨に横倒しとなった。現代文明が大自然の前ではいかに無力であるかを示したような光景だった。

 ▼首都圏から「地震のない」阪神間に転勤で移り住んだ知人は1年も経たないうちに、その兵庫県南部地震に遭遇した。マンションの自宅は壊れなかったが、周りの住宅地は軒並み全半壊し、多くの犠牲者が出た。その記憶が脳裏から離れなかった。

 ▼午前5時46分。新幹線の始発前。街々に住む多くの人が、倒壊した家々から多くの被災者を救い出した。記録では要救助者約3.5万人のうち約2.7万人は近隣住民らが救出し、その約8割が命をつないだ(03年防災白書)。その共助の精神は、同じ震度7の激しい揺れが襲った04年の新潟県中越地震、11年の東日本大震災の被災地にも受け継がれた。

 ▼中越地震では新幹線が初めて脱線。東日本大震災では未曾有の大津波が東日本の太平洋岸を襲い、世界最悪の原発事故を発生させ、今なお終息のめどは立たない。「科学技術を超える」「想定外」などと驕る専門家は見苦しい。謙虚に、大地震の経験を生かす人知が問われている。