政策

おためし移住 ワープステイという提案(5) 元社会部記者は考えた リタイア前に人生の引き出し増やす

 ワープステイ構想は定期借家権で自宅を貸し、その期間だけ田舎暮らしを試してみようという提案だ。地方に拠点を持ち、週末だけ普段と違う暮らしを楽しむ〝二地域居住〟とは、やや異なる。しかし、その違いは主に形の問題であり、都会にはない何かを田舎の風景やそこでの生活から感じとってみたいという思いは同じだ。そこで今回は、平日は横浜から都内に通勤し、週末だけ千葉の房総(いすみ市)での田舎暮らしを楽しむ読売不動産専務(元読売新聞社会部記者)の佐藤薫氏に執筆を依頼した。

 仕事で疲れた週末の夜、横浜の家から外房へ車を100キロ走らせるのは、決して楽ではない。雑草との戦いで、土やら、草の汁やらが爪に入り込む。汚れがなかなか落ちないその手を、週明け会社の女性社員には見られたくないのだが、次の休みの朝も私はそこで迎えることだろう。

 千葉県いすみ市の、岬のある町。川に面した家で休日を過ごし始めて、6年になる。

ワープステイという提案 アンケート
ワープステイという提案 アンケート 法人用 ワープステイという提案 アンケート 個人用

よみがえる五感

 この時期、畑仕事はやれども終わりがない。腰を伸ばして川面に目をやれば、水鳥が舞い、魚がはねている。庭には花、花、そして花。

 辺りは命に満ちている。すべてが美しい。自然に浸るとは、こういうことか。五感がよみがえってくる。

 この感覚こそ、田舎暮らしのだいご味だ。新聞社の社会部などで記者稼業25年。潤いのある生活とは決して言えなかったから、余計、自然が身に染みるのかもしれない。

 田舎暮らしには、もう一つの目的があった。都市に住むサラリーマンは知らないことが多いだろうと思ったのだ。例えばチェーンソーも刈払機も、街で手にする機会は多くない。

 「もっと人生の引き出しを、それもリタイア後ではなく」――。そんな思いに駆られてから、モルタルを練り、レンガを積んではじめて、垂直と水平の難しさを知った。普段は日本酒党だが、たき火には洋酒が似合うと思うようになった。

 とはいえ、街のざわめきにも心をときめかす魅力がある。都市と田舎。違う世界をいずれも満喫したい欲張りを、私は二地域居住と呼ぶ。いずれ職場を離れたら、どうするか。それは、その時に決めればいい。

 いすみ市には大型店も多く、田園風景と生活の利便性が同居している。必要な買い物は済ませて横浜に戻るから、ささやかながら地域経済にも貢献しているはずだ。

踏み出すキッカケ

 さて、田舎の我が家をある日、知人ご夫婦が訪ねて来た。定年が近いご主人は、これからの時間を釣りや畑仕事で過ごすのが夢だと話していた。

 庭から続くウッドデッキへ招いた。緑に包まれた場所での対話で田舎への思いをより深めた2人は、それから何度も物件探しで房総を回った。でも、夢は実現しなかった。高額の不動産購入には、それなりの決断が必要だ。夫婦の意見がそう簡単に一致しないのも世の常。あと一歩を踏み出せないうち、ご主人にガンが見つかった。田舎暮らしどころでなくなったのである。

 あの頃、夫妻のためにいい賃借物件があったらと、つくづく思う。もっと早く、もっと気軽に、あと一歩を踏み出せたのではないか。たとえ短い時間でも。だから、ワープステイ構想には期待が大きい。

 ただ、その実現を誰が担うのか。田舎物件の賃貸借は一般に不動産業として成立しにくいといわれているから、行政やNPOなどの力は必要だろう。しかし、それだけでは人工的な仕掛けに過ぎない。市場原理にのっとってこそ、持続可能で、世の中に広がる運動になり得ると考える。

 空き家の群れが、不動産業界には素敵なマーケットに見える仕組み作りを望みたい。   (佐藤 薫)