ど素人から金持ち大家さんになった人々

第11回 大家開始から1年10カ月で自由を手にした元TVマン大家さん

張田満さんプロフィール
1972年苫小牧市生まれ。高校卒業後、地元の企業での営業職を経て、30才でテレビ番組制作会社に転職。ディレクターとして多忙な日々を送る。2010年にアパート投資を始め、1年10カ月で給料の倍以上のキャッシュフローを得るまでに規模を拡大する。2012年にセミリタイア。2014年に家族でマレーシアに移住し、現在は子育て中心の自由な生活を満喫中。

■ 自分が死んだら、家族に何も残してやれない

――自己紹介をお願いします。

張田満さん 
札幌のアパートや戸建ての大家をしている張田です。2010年8月に1棟目のアパートを購入し、2012年の6月に勤めていたテレビ番組の制作会社を退職しました。2014年に家族でマレーシアに移住して、現在は3人の娘達の子育てを中心としたセミリタイア生活を楽しんでいます。

――不動産投資を始めて1年10ヵ月でセミリタイアとは、スピード感がありますね。属性がよくて、融資がつきやすかったのでしょうか?

張田満さん 
いえいえ。僕は高卒ですし、属性は決していい方ではありません。給料は地方の高卒会社員としては恵まれていたものの、労働時間も長いですし、大家を目指すにはギリギリの水準でした。でも、だからこそ不動産投資を始めようと思ったんです。

――どういう意味でしょうか。詳しく教えてください。

張田満さん 
37才のとき、仕事中に乗っていたハイエースが雪道を横滑りし、崖から転がり落ちる事故に遭いました。幸い、雪がクッションになり助かりましたが、そのとき、「これで自分が死んでいたら、家族に何も残してやれなかったな」と思いました。

実は、僕は5歳のときに父を亡くしているんです。そのとき、父は36才で死因は脳梗塞でした。病院に運ばれた翌日には旅立ってしまい、「簡単に死んじゃうんだな」と実感しました。そんなことから、病気のときも事故のときも、自分の死をとても意識しました。

自分に何かあっても妻と子供達には経済的に苦しい思いをさせたくないという思いが強く湧いてきたのも、母が僕と姉を苦労して育ててくれたのを見てきたからだと思います。あっ、ちなみに事故ったハイエースはボッコボコで一発廃車でした(笑)。

――「自分が死んでも家族を守りたい」という思いが、不動産投資につながったんですね。

張田満さん 
そうです。当時は週に1本番組を作っていて、企画打ち合わせ、ロケハン、台本書き、本番の撮影、編集の作業がエンドレスで続く状態。それでいて給料は頭打ちだったので、「このままではマズイ」と思っていました。札幌は会社員の給料が低いので、プレイヤーとしての収入の限界だったんでしょう。

当時はよく、「稼げるサラリーマンになる」といった本を読んでいましたが、今思うと、努力の方向が間違っていましたね。株やFXを始めても成果が出ず、『金持ち父さん 貧乏父さん』で不動産投資の存在を知ったときは「どうして今まで知らなかったんだ」と悔しく思いました。本を読んですぐ、アパートを買うことを決めました。

■ 柵の中の羊や牛が、自分と重なってみえた

――そこまでガムシャラに働いていた理由は、なんですか?

張田満さん 
一番は、仕事が面白かったことです。AD時代から社長に直接指導を受けて育ててもらったおかげで、ディレクターとしてとても栄誉な、「日本民間放送連盟賞 NAB Awards 最優秀賞」という大きな賞をもらうこともできました。クリエイティブなことがしたくて入った業界で、スタッフにも恵まれ、厳しいながらも、自分には向いていると思っていました。

ただ、モノ作りする人間の宿命なんですが、作品にこだわるほどやりたい事が増えてしまい、会社から徒歩1分の家に帰宅できない日も多かったんです。ADのときはディレクターになったら自分の時間ができると思っていたのに、実際には忙しいままで、ゴールのないマラソンを走っているようでした。

仕事で多くの経営者や独自に頑張っている方を取材する機会も多く、次第に、自分自身も仕事以外にやりたい事があふれてきました。でも、職場ではルーチンの枠組にガッチリと組み込まれていて、そこを抜けるなんて絶対に無理という感じ。あの頃は、牧場の前を通りかかると、柵の中の羊や牛が、自分と重なってみえました(笑)。

――すごくマジメなTVマンだったんですね。

張田満さん 
そうかもしれません。やれといわれたことを、きちんとやり遂げるのがいい社会人だと信じていました。でも、子供が自分にまったくなつかないことや、入院した親族を見舞いにいけなかったことに対しては、さすがに「これでいいのだろうか?」と疑問を感じました。

実は事故に遭う前にも、メニエール病という病気にかかったんです。ストレス病の代名詞のような病気だそうで...。無意識のうちに、心身への負担が大きくなっていたんでしょうね。妻にとても辛い思いをさせてしまいました。

■1棟目を買うときはすごい勇気がいった

――どんな方法で不動産投資の勉強をしましたか?

張田満さん 
本やCDです。学校の勉強は嫌いだったのに、不動産投資の勉強は面白くて、数万円単位で購入して、むさぼるように勉強しました。特に加藤ひろゆきさんの対談CDは、具体的に行動を起こすのに役立ちました。同時に、ネットで情報収集を始めて、売アパートを見に行くことも始めました。睡眠時間は減りましたが、目的があったので苦にはなりませんでしたね。

――平成22年の7月に買われた1棟目は、2LDK×4戸で利回りが17%だったと聞きました。築浅ですし、周囲から見たらうらやましいような物件だと思います。いい物件を買う秘訣はなんでしょう?

張田満さん 
このときは、2,500万円の売値に対して1,900万円の指値を入れたところ、通ってしまったんです。4戸中3戸が空室という任売物件で、夜逃げで荷物がそのまま、内部が破綻している部屋もあったので、他の人は敬遠したのかもしれません。ただ、覚悟は決めていたものの、いざ買うとなると、すごい勇気がいりました。

あとひとつはスピードだと思います。自分の基準を事前に決めておいて、内見後すぐに「この値段なら買います」と業者さんに伝えました。今もそうですが、最初に値段で切り捨てず、気になる物件は見に行って、その場で「この値段なら買います」と伝えるようにしています。その中から、買えるものが出てきます。

――当時、自己資金はどのくらいあったんでしょう?

張田満さん 
自分の貯金と妻の貯金を合わせて、小さなアパートを現金で買えるくらいはありました。仕事が忙しすぎて使う暇がなかったので、自然と貯まっていたんです。ただ、その現金で物件を買ったわけではなく、戸建以外のアパートはすべて、自己資金1割~2割でローンを組んでいます。一棟目は空室が多かったものの、1%台後半の金利で借りることができました。住宅ローンを組んでいなかったのがよかったようです。 

――最初からハードルの高い物件を買われたのですね。客付けまでは順調に進みましたか?

張田満さん 
汚かった部屋が20万円でピカピカになって、入居者もすぐに決まりました。まずは、毎月約15万円のキャッシュフローが入る仕組みを築けたことで、「これで自分に何かあっても家族はなんとかやっていける」とホッとしました。ただ、このときはまだ、セミリタイアは考えておらず、自分の努力で収入を増やせることが嬉しいというくらいの気持ちでした。

後編:第12回 家賃収入を糧に家族で札幌からマレーシアに移住


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