桜の花の色が年々、白っぽくなっているように感じる。日本の桜の多くが樹齢を重ねてきているからだろうか。だとしたら、超高齢社会を迎えている日本という国にふさわしい、まさに〝国花〟である。
▼しかし、老いることは決して哀しむことではない。哀しむべきは、花の色が褪せるごとく、外交において日本という国の存在感がますます薄らいできていることだろう。敗戦後、戦略をもたず追従外交しかしてこなかった国の悲劇である。ただ、もはやそのようなことはどうでもいい。
▼45年頃と言われているシンギュラリティ(AIがAIを作り出す技術的特異点)以降は、人類の想像を超えた社会がやってくるようだ。そのとき唯一大事なことは、人間はどうすれば存在感を持ち得るのかであろう。人類の想像を超えるのだから、想像してもせんないが、おそらくは強大な権力や経済力を身につけるようなたぐいのことではないと思う。
▼人間は煎じ詰めれば〝心〟の存在だから、そのありようになんらかのオリジナリティをもつことではないだろうか。町の片隅にある寂れた居酒屋でも、心やさしい夫婦がやっているような店は、何ものにも代え難いように。
▼桜の花の色が年々、白っぽくなっていくように感じるのは、もしかしたら見る側の心のありようが、既にオリジナリティを失い、気弱になりかけているせいなのかもしれない。