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彼方の空 住宅評論家 本多信博 ◇58 消えた定借論議 〝人生100年〟とは言うものの 未来を語れない不幸

 首都圏分譲マンションの平均価格が80年代後半のバブル期を超えた今、改めて住まい(マイホーム)を持つことの意味を考えてみたい。

 もっともマンション購入者にとって、わずかばかりの土地持ち分は必要かという議論は従来からあった。一戸建てであれば、たとえ猫の額ほどの庭であっても自由に使うことができるが、マンションの敷地は区分所有者の共有となっているので、個人が自由に使うことができるスペースはどこにもない。ならば敷地については建物を建て、利用するために土地を借りる権利(地上権)があれば十分ではないのかと。

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 前回(8月16日号)の当コラムで紹介した「地代前払い・70年定期借地権付きマンション」の購入者には借地権に対する抵抗感がほとんどないという証言は、そうした考え方をする人が多いことを示している。当然、購入価格は普通の分譲マンションの15%程度安くなる。

 もちろん中には「親に相談したら、定期借地権は資産とは言えないからやめとけ」と言われて購入を中止したという人たちもいるようだ。

 では、定期借地権マンションは「資産」ではないのだろうか。定期借地権には別名「定期所有権」という言い方もある。仮に所有していることが資産の要件なら、定期借地権マンションは〝期限付き資産〟ということになる。したがってその資産を将来他者に譲渡する際の交換価値という視点から見れば、期限が近づくにつれてその価値は減少していき、最後はゼロとなる。

 一方、途中での譲渡を前提とせず、最後まで住み続けるということであれば、当人にとっては所有していた資産を使い切るというだけのことである。つまり、定期借地権マンションが資産であるかどうかは、未来の交換価値を重視するか、それまでの利用価値に注目するかの違いである。

見えない未来

 日本人の平均寿命が100歳に近づいても、人口減少という時代背景の中では、それを長寿として祝うよりも〝将来不安〟と捉える傾向が一般的である。将来不安が高まるほど、住まいを唯一の資産とする庶民であれば、その交換価値を重視するのは当然であろう。

 「自宅リースバック」という商品の隆盛が証明するように、所有権を持っていればこそ、いざというときに役立てることができるからだ。しかし、マクロ的なことを言えば、人口減少が続くということは、土地などの交換価値も減少していくことを意味している。地方で土地所有権の放棄という議論が始まっているのはその前触れでもある。

 定期借地権をめぐる議論が当初(制度創設は92年)は人生論にまで発展したことがある。

 「人生は子や孫に資産を残すためにあるのではなく、自らの人生を豊かに楽しむためのもの」といった意見が叫ばれるようになったからである。筆者も当時はそうした議論に積極的に参加し、「人生そのものが有限なのだから、住まいという資産の持ち方にも期限を決めたほうが人生をポジティブに戦略的に生きることができるのではないか」などと語ったことがある。

永遠の真実

 それから30年を経た今、定期借地権を巡る人生論は姿を消し、定期借地権によるマンション分譲のリリースが出されても淡々と発表されるだけである。それは今我々が環境問題など70年後は言うに及ばず、30年後でさえも見通すことができない〝不確実性〟という時代の真っただ中にいるからではないか。

 つまり、未来の交換価値を重視し所有権を取得するか、限りある人生を豊かにするためには定期借地権を選ぶべきかという論議自体がむなしく感じられてしまうほどの〝闇〟が我々の心をむしばみ始めたということである。

 今は〝人生100年時代〟をどう捉えるべきか、誰もが戸惑っている。しかし、寿命の長短など関係なく、限りある命だからこそ人生は尊いのだという価値観こそ永遠の真実ではないだろうか。